7月23日発のチャーター便の旅(2)ソウル市内のロシア人街
[旅行記]2011年09月11日
皆様 理事長です。
今回は、下の写真が主人公です。何だか分かりますか?
答えはチーズです。左の写真のものをほぐすと、右のようになります。
見た目は、裂きイカ、味も似ています。
裂きイカは、ビールやワインでは生臭く感じることがありますが、こちらは乳製品で、塩分が強いものの、酒を選ばずに美味しく食べることができます。
日本では、なかなか買えないこのチーズがソウルのロシア人街で買うことができます。
顧問の先生は、この情報を偶然に入手。
かつてロシア交流を担当していたときに食べたこのチーズの味を忘れられなかったようです。
ソウル到着の翌日、散歩の気分で東横インを出ました。
ネットで手に入れた地図はアバウトで、お目当ての店は東横インから離れているような、いないような。
東大門周辺は、最先端のファッションスポットでありながら、様々な世代の建物が重層的に残る不思議な空間です。
戦後急速に広がった煉瓦積みの建物が広がり、その間にひっそりと古い伝統家屋が朽ち立っています。また、昔の日本家屋も残っています。
次は京城時代の日本家屋です。昔の屋根に新しい屋根をのっけています。
多分、終戦まで日本人が住んでいたのでしょう。
ここは乙支路(戦前は黄金町通り)と鐘路の間に位置しています。
戦前の地図を見ると、東大門周辺には京城師範学校があり、また、路面電車の車両基地がありました。
どちらも日本人が主体で運営され、きっと付近にもかなり住んでいたんですね。
日本人の本拠であった明洞付近では日本家屋は一カ所だけ確認できましたが、東大門ではまだ大分残っていそうです。
肝心のロシア人街ですが、巡り巡ったところ、ある界隈で急にロシア文字が増え、ロシア人らしき方が多くなりました。
顔を上げると、ちょっと向こうは東横イン。結局、目と鼻の先でした。
よい写真がないので、某サイトhttp://jjsarang.exblog.jp/12509631/から写真を借用。
このような店が10軒くらいと、その他ロシア人用の旅行社、運送会社などが固まってあります。
ロシア人の生活に必要な店が集まっているわけですが、注意しないと気付かないくらい、ソウルの街になじんでいます。
チーズを買うときにも楽しい事件がありましたが、別の機会にします。(顧問の先生、事件の解明は進んでいますか?)
ところで、どうしてロシア人街ができたのでしょう。
上の写真の店は、(株)サマルカンドと書いてあります。ウズベキスタンの首都の名です。
ご存じサッカー男子が3次予選を争っている国ですよね。
旧ソ連内でもロシアではなく、シルクロードの国、ウズベキスタン。
今回のテーマのチーズは、塩加減といい、おそらく牧畜の民の食べ物なのでしょう。
1937年(昭和12年)、スターリンは、朝鮮と国境を接する沿海州に住む朝鮮族20万人を強制的にウズベキスタン等の中央アジアに移住させます。貨車に乗せられ、トイレも食事もろくにさせてもらえず、死んでいった姿が趙廷來(조정래)さんの小説「アリラン」に描かれています。皆さんも機会があれば是非お読み下さい。
当時、沿海州に住む朝鮮族の皆さんは、冬になれば凍った川を渡り、夏は小舟で気楽に朝鮮との間を往復していました。ところが、そこは、日本とソ連の情報戦のまっただ中。お互いに朝鮮人をスパイに使いました。ソ連はこれに耐えきれなくなり、強制移住をさせたといわれています。しかし、沿海州には朝鮮人がいなくなり、朝鮮向けのスパイ確保に困ったソ連は、今度は中央アジアの朝鮮族等からスパイ候補を選抜し、教育し、江原道の海岸線から潜入させたというのですから、実に身勝手なものです。
このような動きの中、旧ソ連内の朝鮮人(高麗人といわれます)は、戦後、北朝鮮に戻り、粛正されたり、無国籍となったりと変転めまぐるしい環境に置かれます。現在、韓国は無国籍の高麗人の救済事業を行っています。また、1万人もの高麗人が韓国で働いており、母国ウズベキスタンに毎年1億ドルを送金をしているとの話もあります。
ソウルのロシア人街では、見た目、白系の方が目立ちます。ウズベキスタンとの関係だけでは説明できません。長い交流の中で、同じ文化を共有した人たちが自然と街をつくったということなのでしょうか。